SOMNUS


序章




― 敵兵約一千人が国境線に集結している ―


 その報告を聞いたとき、王子は明らかに嘲笑っているようだった。

 普段、その整った容貌を崩すことはないが、時折こうした笑顔を見せる。
 
 もちろん、笑顔は笑顔でも、それはどこか歪んでいる。

 玉座前の床に鎮座したナディルはふと、思った。

 この人は、生まれてこのかた、感情を表に出したことはあるのだろうか、と。

 そもそも、この人に感情というものが備わっているのだろうか、と。

 事実、彼は父親の訃報を聞いたときでさえ、眉一つ動かさなかったのだ。


 王子は、玉座に頬杖を突いた気怠るげな姿勢のまま、ゆっくりと言った。

「お前たちは、夕暮れまでに城から出て行け。地下シェルターへの通路はわかっているだろう」

 ナディルは自分の耳を疑った。
 
 いつも冷徹な表情の王子が、自分たち家来に声をかけたことなど、数えるほどしかない。

 さらに、自分たちの身を案じてくれるなんてことは想像を絶していた。

 しかし、「はい、そうですか」とそそくさとその支持に従う愚か者はいない。

 クリスタルを受け継ぐ最後の王国、その国王一家に代々使えてきた家来たちの忠誠心は厚い。

 ナディルは下っ端ながらも、国王直属の家来としての誇りは人一倍持っていた。

 勇気を振り絞って声を上げた。


「恐れながら申し上げます。 殿下のお言葉大変ありがたく存じます。

 ですが、我らは殿下お一人をこの城に残しておめおめ退散するくらいなら、死んだほうがましの所存であります。

 どうか、このまま我らを殿下の盾としてお使いください」

 言い切ると、ナディルは真っ赤な顔をしてうつむいた。

 差し出がましいことを言ってしまったと思った。

 単なる一兵卒に過ぎないお前が何をでしゃばったまねをと、先輩たちが非難の目線をくれている気がする。


「ナディル」

 呼ばれて、ナディルは反射的に顔を上げた。

 王子の顔が目の前にあった。アッシュブラックの前髪の間から、日暮れ色の瞳が自分を見つめている。

 何もかも信じられなかった。

 王子が自分の名を知っていたことも、その王子が一瞬の間に十メートルは離れている玉座から目の前に立ったことも。

 ぽかんとしているナディルに向かって、王子はいきなり空手チョップを繰り出してきた。

「いたっ」

 両手で頭を押さえてうずくまるナディルの前に王子は仁王立ちした。

「馬鹿か、おまえ」

 王子の空手チョップは強烈だった。

 ナディルは、なみだ目で孤高の人を仰ぎ見た。

「盾なら持っている。お前たちに用はない。この城は俺一人で十分だ」

「む、無理ですよ!! だって相手は一千人ですよ!? そんな相手に向かってたった一人でなんて。

 いくらあなたが強いといったって・・・あ・・ががががあが・」

 王子は今度はナディルの口の中に親指を突っ込んで、ぐいぐいと左右に引っ張った。

「いだだだだだ」

「ぎゃんぎゃんうるさいのはこの口か?」

 さんざん弄んでぱっと放す。ナディルは飛ぶように王子から離れると両手で腫れた頬を包み込むようにして訴えた。

「ひどいですよ!! 人をなんだと思ってるんですか、いくら殿下でもやっていいことと悪いことが……ふご」

 ナディルは今度は上司の一人にヘッドロックされた。腕で口をふさがれているので何も言えずにもがいている。
 
「申し訳ございません。見苦しいまねを」
 
 ナディルを抑えながら近衛隊長アスティンが詫びる。この人は多少のことには動じないのだ。

「ですが、ふざけている場合ではありません。事態は急を要するのです。この城に残る兵士は百人、対して敵はその十倍。

籠城するにしても、心もとない次第です。もちろん、城には一年分の糧食は蓄えてはありますが……」

 王子はさして興味もなさそうに聞いていが、ついと視線を上げた。射るような眼差しを受けてさすがのアスティンもぞっとした。

「あんた、要するに何が言いたい? このまま籠城しても負けるかもしれない。でも敵と真正面からぶつかる勇気もない。 結局は俺に意見を求めてるんだろ?」

 声に苛立ちは感じられない。淡々と王子は話す。

「だったら俺の意見は一つだ。お前たちがいると足手まといなんだ。いなくなってくれると嬉しい」

 玉座の間に集った兵士たちの間にざわめきが起こった。明らかに非難が混ざっている。

 そもそも、王子が玉座についていること自体おかしいと思っている者もいた。

 国王が亡くなり、王家の血を引き継ぐものは彼しかいない。しかし、まだ正式に戴冠式を終えていないのだ。

 すなわち王子は、いまだ国王ではない。

 アスティンは兵たちを鎮めて、意を決するように言った。

「あなたに万一のことがあれば、この国は終わってしまうのです!」

 事実だった。

 この国では、王族の死は、すなわち王国の滅亡を意味していた。

 代々、王国はクリスタルの力によって保護されてきた。その庇護下で、暴力はびこる世界にあって近代文明を開花させることができた。

 しかし、このクリスタルを操れる能力は王族にしか備わっていないのである。

 クリスタルを欠いて、超高層ビルが立ち並ぶこの国の発展はありえなかった。

 人口一万人にも満たないこの閉鎖された王国は、一つの卓越した異世界といっても過言ではない。

 対して、外界はまさに野蛮人の国家が林立している。

 武力で押さえつけることしか知らない彼らは、国家間で火花の散る勢力争いを繰り広げているが、その飛び火はこの王国にも及んでくる。

 技術の奪取や私利私欲のために、そして最後のクリスタルを奪うために、過去たびたび外界は攻撃を仕掛けてきた。

 その侵入を阻んできたのが、クリスタルが造る強固なバリアである。

 王国全体をすっぽりとドーム状に覆うバリアは、核爆弾でさえ防ぐことができる。

 しかし、国王が亡くなった今、そのバリアの強度が落ちてきていた。

 その隙を狙って、再び外界の兵士が大群となって押し寄せてきたのである。


「バリアはまた作り直せばいい。ただ、その前に蟻の大群をなんとかしないとな。うるさくて眠れやしない」

「殿下!」

 アスティンはとらえどころのない王子の態度に苛立ち声を荒げた。

 王子はそんなアスティンをじっと見据えた。

「あんた、家族はシェルターに非難させてるんだよな。

 奥さん、産気づいてるらしいぜ。初産だから辛そうだ。周りの連中も自分のことに精一杯で誰も手を貸してやらない。

 奥さんは必死であんたの名を呼んでる」

 さすがに、アスティンは顔を赤らめた。

「な、何を……でたらめを!」

「嘘だと思うんなら行ってその目で確かめてくるんだな」

「それが真実だという証拠は?」

「証拠なんてないさ。俺にしか見えないからな。でも……そうだな、奥さんはピンク色の服を着ている」

 アスティンの顔色が今度は驚愕に青ざめた。さも言いにくそうに声が小さくなる。

「で、殿下……大変恐縮ではありますが……」

「ああ、行って来い。駆け足でな」

「はっ」

 敬礼し、駆け足というよりも全力疾走で去ってゆく上司の背中を、ナディルは他の兵士たちとともに呆気にとられて見送った。

 そして、シェルターに家族を残してきた誰もが彼をうらやましく感じたのである。

「殿下、実は私の母も病に臥せっておりまして……」

「唯一の家族である妹の身が心配で……」

「婚約した彼女に他の男が言い寄らないか心配で……」

 次から次へと、様々な理由をもってして、王子の前に跪いては除隊の許しを請うた。

 王子は玉座の肘掛に頬杖をついた頭を軽く揺らすだけで、彼らに許可を与えたのである。

 頷いているように見えたが、実際は舟を漕いでいただけかもしれない。

 そうして、みるみるうちに百人いた兵士はたったの十人になっていた。



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