SOMNUS

テネブラエの春







歩くたびに土の柔らかい感触が心地よい。
普段歩きなれたアスファルトやコンクリート、それに城の大理石の床とも違う、生命を宿した息づく大地である。
肌を撫でる風は温かく、花と緑の匂いを運んでくる。
空にはうっすらと雲がかかり、半ば遮られた春の日差しが小道に咲き乱れる花々を優しく照らし、それらに白や黄色の蝶が舞いつつ移ろぐ。
高くさえずる鳥の声は、長い冬を終え、春が来て一斉に働き始めた生き物たちを代表し、快哉を叫ぶかのようだ。

ツバメが子育てに追われ、せわしなく蠅を追い低空飛行する田舎道を、ノクトはステラと並んで歩いていた。
見渡せば、草原の遥か遠く微かにステラの住む街のたたずまいが見て取れる。
どこか非常な郷愁を呼び起こす、それはテネブラエの郊外の田園地帯であった。

(なぜだろう。ひどく懐かしい感じがする。ここには過去に一度も訪れたことはないのに……)

ノクトは空を仰いだ。
太陽の光が気持ちいいと初めて感じた。
思わず両手を上に上げて伸びをする。深呼吸をして新鮮な空気を肺で満たした。

「なんか、『生きている』って実感するな」
「気にいって頂けましたか?」
前を歩くステラが立ち止って振り返る。小首を傾げたように彼女はノクトに笑いかけた。
「本当は街中にお連れした方が良かったかと思ったのですが――でもこの丘はわたしのお気に入りなので」
ステラは何を思ったか、履いていた靴を脱ぎ出した。
そして裸足になって草地に踏み入れる。
「怪我、しないか?」
ノクトが心配するも、ステラは首を振る。
「平気です。こうしていると草花の息吹が感じられて元気をもらえるんです」
「へえ」
ステラの少しメルヘンチックな物言いに徐々に慣れてきていたノクトは、半信半疑ながらも自分もブーツを脱いで裸足になった。
恐る恐る足を草地に踏み入れる――ノクトは虫の類が苦手だったのだ。

生まれて初めてと言ってもいい、裸足で感じる天然の大地。
太陽に温められた草地はしっとりと彼の肌を包んだ。

「たしかに、気持ちいいな」
「でしょう?」
ステラが得たりと微笑む。
そして何を思ったかいきなり大地に仰向けに倒れ込んだ。
「ス、ステラ?」
「ほら、ノクトさまもっ」
「おい――…」
彼女が強引にノクトのジャケットを引っ張ったので、思わず彼もステラの隣に倒れ込む形になった。
彼としてはステラがまさかこんな「乱暴な」仕打ちをするとは思わなかったので油断していたのだ。
転んだところで草地がクッションの役割をして痛くもかゆくもなかったのだが。

頭上には若葉をふんだんに付けた木が、二人を直射日光から守ってくれている。
芽生えたばかりの黄緑色の葉っぱは、まだ虫に食われず風雨にもさらされず真っさらで美しい。
その枝の一つに小鳥がとまり、眼下に寝そべる二人を訝しく見ている。

きらきらとした木漏れ日が、痛いほどノクトの目に染みた。

――世界はなんてきれいなのだろう。

心の奥底から沸いてきた実感。
そんな感慨を持つのも初めてだったので、ノクトは少しうろたえた。
人工的な偽りの美しさに満たされた世界に育った彼は、自然が作り出す真似できない生命の輝きに圧倒されていたのだ。

「テネブラエって、いいところだな」
「ええ」

思わず漏れたつぶやきに、隣で横になったステラが相槌を打つ。「永遠にこの景色が残ることを願っています」

それははからずも冷戦の緊張に苛まれた国の一員としての思いだっただろう。しかし、呟いたステラ本人も隣で聞いていた当の相手国の次期国王であるノクトも、今はただ春のうららかな陽気に包まれて眠気を覚えるばかりであった。


そうして平和のうちに、二人の時間は過ぎていった。






end.








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