SOMNUS



真夏の太陽が雲ひとつない青空に王者のように輝いている。
白い砂浜とエメラルドグリーンの海。
濃い緑色のヤシの木々が風に揺れる。
咲き乱れているのはビビッドカラーの南国の花々。
そこは文字通り楽園だった。

「ひゃっほう! 海だ海だぁ!!」

チャラ男が真っ先に王室専用の小型機を飛び降り、ビーチサンダルで熱く焼けた砂浜を駆けていく。
「あ、おい待てよ」
スカ―フェイスが慌てて後を追う。
彼らはすでに上半身裸だ。

「この時期王国の海は人人人だよ。プライベートビーチなんて、全く持つべきものは王子の友だね!
ま、水着のギャルの群れが拝めないのは残念だけど……」
「ほざけ。お前は先週海水浴行ったばっかだろうが」
「そうだっけー」

ふざけ合い海に入っていく二人を遠くに見ながら、ノクトとステラ、それに操縦していたメガネはゆっくりと小型機を降りた。
きつい日差しがかえって気持ちいいぐらいだ。
スモッグで汚れた王国ではめったに拝めない抜けるような青空――。

ノクトはまず、ステラのために砂浜にパラソルを立て日よけを作った。
「ありがとうございます」
麦わら帽子の下でステラがひまわりの花のように笑う。
それが太陽のように眩しくて、ノクトは目を細めた。

「俺はここで昼寝でもしておく。お前たちも行ってきたらどうだ?」
メガネが砂浜に敷いたビニルシートの上にごろりとその長身を横たえた。
「メガネは行かないのか?」
「俺はカナヅチだからな」
メガネは恥ずかしげもなく言った。

――実は俺もだ。

ノクトは心の中でつぶやいた。
実際、海に来るのは反対だったのだ。

ことの発端は一週間前のことだ。

『ノクトの家ってね、なんとプライベートビーチがあるんだよ』
チャラ男がまるで自分のことのように得意げにステラに言う。
『そうなんですか? うらやましいです』
王国に遊びに来ていたステラは本当にうらやましそうに言う。
『なんだったら今度さ、みんなで一緒に行こうよ』
『ええ!』ステラが瞳を輝かせる。
ノクトはしかし、何とか理由をつけて反対しようとした。
しかしチャラ男の『ステラちゃんの水着姿、見たくないの?』
そう、この一言で決まってしまったのだ。

――俺もバカだよな。
ノクトは内心自嘲しながら浮き輪を必死で膨らませていた。
浮き輪さえあれば何とかごまかせるだろう。
ノクトが浮き輪を完成させたころ合いを見計らってか、ステラの声が背後からした。
「ノクトさま、私たちも泳ぎに行きませんか?」
「…あ、ああ」
ノクトが振り返ると――……

そこには水着姿のステラが立っていた。
おそらく服の下に水着を着こんでいたのだろう。
色白の肌に水色のビキニが良く似合っている。
すらりとした手足はそのまま水着のモデルになれそうなほど均整がとれ、
初めてお目にかかる臍の形の良さは古代の女神像にも匹敵するだろう。
それだけで十分なのに、あろうことか地面に座っているノクトに話しかけるために彼女は前かがみになっていたのだ。
否が応でも目が行ってしまう、胸元の谷間。
「ノクトさま、大丈夫ですか? 少し顔が赤いです」
慌ててノクトはステラから目を逸らせた。
「あ、ああ、浮き輪を膨らませていたからな」
ノクトは来ていたTシャツを脱いで立ち上がった。下はすでにサーフパンツだ。

「おーーい、ノクトー、ステラちゃーん、早くおいでよーー!すごーーく気持ちいいよーー!」
チャラ男が海の中から大きく手を振っている。

「今、行きまーーす!」
ステラが負けじと手を振り返す。
「さ、ノクトさま」
ステラがノクトの腕を取った。そして、そのまま駆けだす。
「あ、ちょっと」
ノクトは慌てて浮き輪を抱えたのだった。





ノクトは先を行くステラの手を引いた。
「? ノクトさま?」
小首を傾げてステラが振り返る。
滑らかな背中を露出させた水着姿が直視できず、ノクトは視線をそらせながら言った。
「貝殻とか踏むと危ないから俺が先に行くよ」
そう言ってステラを自分の後ろに回した。
実のところ、ステラの水着姿をチャラ男たちに見せたくなかったのだ。
自分だけの――という気持ちは毛頭ないが、彼女の「神聖な」体をチャラ男が見て、ふざけたことを言えば自分は彼を殴ってしまうだろう。それだけは自信を持って言える。
ノクトは自分の体と大きな浮き輪でステラをチャラ男たちの視線からガードした。
彼女の体が水に隠れるまで、何としても死守する――!
そう心に固く決意し、彼は勇ましく苦手な水の中へと歩を進めた。

久しく入る海は、柔らかくノクトの体を包んだ。
小さいころ、確かに自分は海に来たことがある。
そう思える懐かしさが感じられた。

――あれはいつのことだっただろう。
物心ついてそうは経っていないころだから、五つぐらいだったろうか。
自分のそばには母親がいて、女神のような微笑で初めての海に驚き怯んでいた自分を見下ろしていた。
――だいじょうぶよ、ノクティス。海は怖くはないのよ。
波を怖がる自分を励まし優しい微笑をたたえた母親の面影が、目の前にいるステラと重なる。
そのステラが突然叫んだ。
「ノクト様、波が!」
「……え?」
遠い目をしていたノクトは突如出現した大波にがばりと呑みこまれた。
浮き輪を装着していなかった彼は、波に翻弄され上も下も分からない。
ゴボゴボゴボ……
どこまでも沈み込んで行くような感覚。
それはしかし恐怖ではなかった。
ステラがそばにいる。自分を呼ぶステラの声が確かに聞こえる。
それが彼に安心感を与えていたのかもしれない。

「ノクトさま、しっかりしてください!」
ペチンと頬を打たれて、ノクトは目を覚ました。
「あ、ステラ……」
その間の抜けた声を聞いて、見守っていた三人は思わず噴き出した。
「ノクトーー! ひざ下の深さしかないところで溺れないでよーー」
チャラ男はげらげら笑っている。
「お前が波に呑まれて転がっているところを見た時は、もう駄目だと思ったが」
スカ―フェイスがそう言ったために、チャラ男はますます腹を抱えて絶倒しそうな勢いだ。
「でも良かったです。大事に至らなくて」
ステラが真面目に言ったものだから、ますますチャラ男が泣き笑う。
「ステラちゃん、いくらなんでも深さ30センチのところで溺れ死んだなんて次期国王が、あんまりでしょ、そりゃ」
砂浜に横たわっていたノクトはゆっくりと身を起こした。
チャラ男のからかいもなぜか腹が立たない。
それよりも彼の内には嬉しさが広がっていたのだ。
「ノクト様、浮き輪、流されちゃいました。拾ってきましょうか?」
ステラが気の毒そうに言ったが、ノクトは首を振った。
「いいんだ、ステラ。俺、海が実は怖かったんだけどさ。なんかさっき波に遊ばれてた時、全然平気だったんだ。不思議だけど」
ステラにしか聞こえないように小声でノクトは言った。
「そうだったんですか」
ステラはにっこりと笑った。「それじゃわたしと一緒にサンゴ礁を見に行きましょう」
それは心躍るような誘いだった。





海の中は静寂と生命の息吹に溢れていた。

外から眺めるとエメラルドの海の中はすきとおった青色で、
二人の闖入者などお構いなしに、魚たちは群れて過ぎ去りサンゴの住まいを忙しなく行き交っている。
ノクトはもちろん魚の名前など知らない。
ただ、36色の絵の具を全て使ったかのような魚やサンゴは見ているだけで楽しかった。
それは色とりどりの息づく宝石のように美しい世界だった。

そしてノクトの前を行くステラは――金色の髪を豊かになびかせ、イルカのように軽やかに泳ぐその様はまるで、人魚のようだ。

おとぎ話の世界に迷い込んだようなふわふわとした気分。母なる海に抱かれている安心感。
生命の起源が確かに海であることを、自分もそのひとつであることをぼんやりと感じられる、
それはとても幻想的な時間だった。


海から上がると、日は西に傾いていた。
チャラ男たち三人は砂浜でバーベキューの準備を始めている。
手伝おうと二人が行くと、チャラ男が「いいからいいから」と手を振る。
「準備なんて三人で十分だよ。ほら、行った行った」

追い払われた二人はしばし所在無げに顔を見合わせたが、
刻々と色を変えていく夕日に誘われるように、再び波打ち際へと歩き出した。

空は、青から紫、そして太陽に近づくにつれ橙色になる。
雲は紅にたなびき、沈みゆく太陽は今や黄金の輝きを放って、
大海原に一本の光の道を作りだしている。

二人は、自然が見せる素晴らしい色彩の芸術からいつまでも目が離せなかった。

「…ステラ、ありがとう」
ノクトは太陽から目を離さずにつぶやいた。
「え?」
ステラがノクトの方を向く。「なにが、ですか?」
彼女がまっすぐ自分を見つめていることがわかったが、ノクトは少し照れくさそうに、やはりステラから視線を逸らして言う。
「いや、さ。俺ステラに会う前は、この世界にあるいろんなもの、空だったり花だったり動物だったり……、そういったいろんなものに全然興味がなかったんだ。
毎日が味気なくって、あいつらと騒いでる時だけはそれなりに楽しかったけど、それ以外は、あの城で帝王学だのなんだの、ほんとにつまらなくてさ。
でもステラに会ってからだよ。空がこんなにきれいだって思うことができるようになったのは。
空だけじゃない。今まで気にもとめなかった小さな物を、その存在を初めて知ったように新鮮な気分を味わえたのは」

最初のころは、道端にいる小鳥にさえ瞳を輝かせるステラを見ているのが楽しかった。
そのうち、ノクト自身彼女の関心を寄せる対象に興味を持つようになったのだ。
彼女という媒体があって初めて、彼はようやく世界を知ることができたと言っても過言ではなかった。

「そんな、お礼を言われるようなことなんて、何もしていません」
ステラはにっこり微笑んでノクトの肩に頭をもたせかけた。
「あなたがいつも私を見守っていてくれるから、私はいつだって思うように羽目を外せたのです」
彼女の笑みにつられ、ノクトも笑顔になる。
そして、彼女のほっそりとした肩に手を回す。



やがて夜のとばりが下りて星が空を飾るまで、
あたかも太陽に自分たちの存在を刻み込もうとするかのように、
二人はいつまでも砂浜に佇んでいた――……。





end.




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