SOMNUS

光と闇の邂逅









階下のざわめきから逃げるように、ダークスーツに身を包んだノクトは、展望ホールへと向かう螺旋階段を上がっていた。
和平協定調印祝賀パーティーは宴もたけなわ、人々は酔いにまかせて実りのない会話にいそしんでいる。
次期国王である彼は、皆の注目やそれに対する愛想笑いに心身ともに疲れ切り、今はただ静かな空間だけを欲していた。

踊り場まで来ると、階下の喧騒もかなり遠くなり、ノクトはほっと胸をなでおろした。心底、自分はこのような立場に向いていないな……と感じた。それは長らく感じているやり場のない諦めだ。

色とりどりの熱帯魚だけでなく小型のサメさえ泳ぐ巨大な水槽と、高いガラス張りの天井が設えられた豪華な展望ホール。そこは期待通り静けさに包まれていた。
おのれの足音が大きくホールに響く。
天井からぶら下がるシャンデリアの抑えられた照明と黒を基調とした内装のせいで、ホールは薄暗い。しかしそのお陰で、窓の外に広がる都市部の豪勢な夜景が浮かび上がるように一段と美しく見える。
――もちろん、生まれた時から大都会で暮らすノクトは夜景など見慣れてしまい、今さら感動したりすることはなかったが。

彼は様子を見るように、ホールに足を踏み入れた。刹那はっと息を呑む。
誰もいないだろうと予想していたが、そこには先客がいたのだ。
白い膝丈のシンプルなドレス姿のほっそりとした金髪の女性が、死神を模した彫刻が持つ絵に見入っている。それはいにしえの女神『エトロ』を描いた絵だ。

(誰だろう)

ノクトはゆっくりと歩きながら様子をうかがう。
もちろんいきなり話しかけたりはしない。彼は奥手だった。

ノクトの視線を感じてか、彼女がゆっくりと振り向いた。
そのあとの光景は、彼の目にはまるでスローモーションを見ているかの如く映った。

金髪をふわりとなびかせてこちらを向いた美しい顔。その様子からはノクトとほぼ同年代に見える。
大きく神秘的な紫水晶色の瞳がノクトを捉えると、それはは細まり艶やかな桃色の唇は自然な曲線を描いた。
彼女は微笑んだのだ。

――その瞬間ノクトの心臓が跳ねるように高鳴った。

彼女の笑顔は儀礼的なものだ。頭のどこかにそう冷めた考えがあるのに鼓動はおさまらない。
そんなことはあるわけがないのに、その笑顔が自分のためだけに用意された特別なものではないかと錯覚をおぼえる。
彼女の笑顔は、心洗われるほどに清らかだった。

我知らずぼーっとなった彼は、自分がいかにも不躾な視線を送っていることに気付き慌てて彼女から視線を逸らした。
彼女の方もそんなノクトには構わず再び絵の方に視線を戻す。

ノクトにとっては何となく気まずい沈黙、ただしそれは長くは続かなかった。
彼女が話しかけてきたのだ。

「ノクティス様は光が見えるんですね」
ノクティスと呼びかけられたことより「光」という単語にノクトは反応した。
思わず彼女の方を振り向く。
「私もです」
彼女は、高い天窓の遥か彼方に光る星々を見上げた。
ノクトは、その声がよく聞こえるようにと彼女の方に少しだけ歩みよりながら、同じように空を見上げる。
そこには都会と満月の明かりに脅かされつつも健気に輝く星座があった。しかし「光」は見えない。

(「光」のことを知っている? いったい彼女は何者だろう)

不審が再び彼の目を彼女に釘付けにした。
しかしノクトの視線さえ感じぬがごとく彼女はその華奢な顎を上げ、夜空の星を眺めている。
柔らかで、それでいてどこか凛とした横顔だった。


「さっき階段の下から見ていたのは、あの光ですよね」

突如くるりと彼女が振り向き自分に近づいてきたので、ノクトは大慌てで後ろを向いた。
自分が今の今まで彼女に見とれていたことがばれたのではないかと、内心かなり動揺していた。動揺を誤魔化すように早足に彼女から離れようとする。
後ろ手に組みながら彼に向かって真っ直ぐな視線を送ってくる彼女は、一言でいえば積極的だったのだ。
それに先ほどの角度からは見えなかったのだが、彼女は結構胸元の開いたドレスを着ていた。彼女に視線をやれば自然その白い絹のような肌にも目がいってしまう。そのことも彼を狼狽させるには十分だった。
彼は、その恵まれた容姿とは裏腹に、女の子と接するのが非常に苦手だったのだ。

「――まあな。あんたはいつから見えるんだ?」
ノクトは背後にいる彼女を振り返ろうともせず、平常心を誇示するようにことさらぶっきら棒に応えた。
どこの誰とも分からない女性を「あんた」と呼ぶのも失礼じゃないかと内心咎めたが、出てしまったものは仕方ない。
「子供のころからです」
彼女の声は少し沈んだ。もしノクトが振り返って彼女の顔を見たのなら、その美しい顔に過去のあまり愉快でない思い出のかけらを見ることが出来たのかもしれない。
しかし彼は前を向いていたので、それを見逃した。それよりも、子供のころから「光」が見えるというおのれとの共通点に驚いていたのだ。
「やっぱり死にかけたのか?」
それはかなり無遠慮な訊き方だったがノクトは尋ねずにはおれなかった。
「はい―― ノクティス様もですか?」
ノクトの質問に何ら躊躇せず答え、逆に質問してくる彼女に、ノクトはやはり振り返らずに「ああ」と答える。
散々な目に遭った過去の記憶がノクトの脳裏をかすめた。
「あれはまずかった」
歩きながら首を振りつつその記憶を振り払う。
半ば以上記憶の奥底に葬ることに成功したのだ。今さら思い出したくもなかった。

彼女は静かに語り始めた。
「女神エトロ 死者の魂を迎えんと扉を開く――」
決して声を張り上げているわけではないのに、彼女の声は神聖な祈りのごとく響き渡った。
「その時 死者の国を照らすまばゆい光 天に漏れ出す」
ノクトは静かに聞いていた。
「まれにその光を見る者あり」
彼女はノクトを追い越し自らの想念にとらわれたように夜空を見上げた。
「その者死者の国より力を授からん――」


「――テネブラエの言い伝えです」
彼女はそう言葉を切った。
「ここでも同じだ」
ノクトは窓の外に広がる夜景に彩られたおのれの王国を無造作に手で示した。
その行動の裏には、迷信なんて馬鹿馬鹿しいという思いが少なからずあった。
ノクトは死神やら女神やらそう言う「胡散臭い」物事があまり好きではなかった。
次期国王という立場上、王国宗教を信仰しているが、それも形だけのものだ。
彼が信じるのは常に、おのれの力と信念以外なかった。
だから、前を歩く彼女が振り返って、
「ノクティス様は力を授かりましたか?」
と可愛らしく小首を傾げて尋ねてきたのに対しても、
「全然――」と手を振り、
「そんな力なんていらないから」
と素っ気なく彼女の方を見ようともしない。
「間にあってるし」
とこれはさすがに蛇足だったかとノクトは言ってしまってから後悔した。
彼は人一倍照れ屋なくせに妙に自信家であるという相反する性格の所為で、時に墓穴を掘った。
しかし彼女はノクトの蛇足より「そんな力なんていらない」という部分に共感したらしい。
「ですよね!」
と語調を強めて同意する。
「どんな力でも誰かの命と引き替えなんて――」
彼女は眉をひそめて身震いするようなしぐさをした。「きっと悪い夢見ちゃいます」
言い終え彼女はノクトの方に訴えかけるようなまなざしを向けた。彼女としては同意を期待しての仕草だったのかもしれない。
彼はしかし、彼女の視線を受け止めることもせず前を向いたまま呟く。
「そう―― いいかげんなおとぎ話さ」
ノクトはこの『おとぎ話』自体詳しくは知らなかったし、また知りたくもないと思っていた。
だが「光」を見たという事実が――それがどういう変化をおのれにもたらすかはともかく――異常なことであるという認識は少なからず持っていた。だから彼は彼女にこう忠告したのだ。
「光のことは誰にも言わないほうがいい」
別に言ったからどうなるというものではない。ただ彼は、次期国王として生まれたその類い稀な立場ゆえに周りに溶け込みきれないという寂しさを長年味わってきたので、これ以上特別な存在として見られるのが我慢ならなかったのだ。
「どうしてですか?」
案の定、彼女は理由をたずねてきた。
「他人と違うってことは――」
ノクトはどさりとベンチに腰を下ろした。寂しい過去に思いを馳せるように少し遠い目をする。
「何かと面倒くさいだろ?」
それは投げやりな回答だったが、彼女は彼のその伏せた瞳に何かを感じ取りそれ以上の問いを控えた。
ノクトは彼女が黙り込んだので言い方が悪かったかと彼女を見上げた。
彼女はなにやら考え込む様にしている。それがまさか一国の王子であるとは思いもよらなかったにしろ、長らく一人抱えてきた「光」についての疑問を共有できる人物が見つかり嬉しかったのだ。
それゆえ「光」への言及をやめなかった。
「でも言い伝えがおとぎ話だとしたら、あの光――」
彼女は夜空を見上げた。ノクトもつられて見上げる。
「本当は何だと思いますか?」
夜空の星は何も言わずまたたきを繰り返している。無論ノクトに答えられるわけがない。彼女の問いは夜空に吸い込まれていった。
ノクトにしたところで、「光」が何なのかという疑問を解決したいという欲求がないとはいえない。
ただそれを知った時に何か取り返しのつかないことが起こりそうな漠然とした恐れがあった。
それは「そんな気がする」という程度のものだったので彼は敢えて口にすることはなかった。

「本当は――ただそこにある」
彼はベンチから立ちあがりながら彼女に念を押すように言った。
「それでいいだろ?」
彼女は真っ直ぐノクトを見つめている。彼女の期待する返答ではないことは重々承知している。彼はただこの話題をさっさと切り上げたかった。
そろそろ会場に戻らなくてはまずいと感じ始めていた。業を煮やした側近かあるいは仲間たちが探しに来るかもしれない。

この時になってはじめて、ノクトは彼女の名を聞いていないことを思い出した。
「ええと――」
ノクトの意思が伝わったかのごとく彼女は微笑んだ。
「ステラです」
彼女は上品に自分の胸元に手をやって名乗った。
「ステラ、俺はそろそろ行かなくちゃ」
その時にはだいぶ余裕の出てきた彼は、本来の性格とは合わないまでも長年社交界で知らず身についたノウハウで、早速その名を呼び、笑みを浮かべてステラを見ることができた。
「おひきとめして申し訳ありませんでした、ノクティス様」
ステラはやはり礼儀正しくノクトに向き合う。それは次期国王に対する敬意であるだろう。ノクトの心がちくりと痛む。彼はしかし柔らかな表情を絶やさなかった。
「ノクトでいいよ」
「……」
返事に困ったようにステラは何も言わなかった。
( やはり次期国王である自分を親しく呼んでくれるわけがないか…)
失望が胸をよぎった時――
「――私も戻らないと」
ステラはにわかに踵を返した。
(え――? もう行ってしまうのか)
ノクトは彼女の肩より少し長い癖のない金髪が、白い背中で揺れるのを見つめた。
自分から言いだしたことであるのに、ノクトはおのれの内に名残惜しさが広がっていくのにあきれる思いだ。置いてきぼりを食らったような孤独さえ感じる。
なんと身勝手なのだろう。
自分の感情を持て余していると、まるでノクトの心の声が聞こえたかのようにステラが振り向いた。
「今夜私はあの光から力をもらったような気がします」
そう言ってまた夜空を見上げ、ノクトに向き直る。
「あなたに話しかけることが出来ました」
ステラの率直なあたたかい言葉が照れくさくて、ノクトはおどけたようにお手上げのポーズをした。
「悪い夢見るぞ」
ステラは笑った。
「いじわるですね、ノクティス様は」
「ノクト」
彼も笑顔で訂正した。
「次に会った時はそう呼びます」
ステラは後ろ向きに歩きながら続けた。
「今度はテネブラエに来てくださいね。私がご案内します」
社交辞令だろうが、もし実現すればどんなに素敵だろうか。
「いいかもな、考えておく」
彼は冗談ぽく、少し偉そうに腰に手をやって頷いた。
ステラは彼の返事を訊くと、一つ頷いて足早に去って行った。

彼女の立てる靴音を遠く訊きながらノクトは何気なく夜空を見上げる。今夜はこれで何度目だろうか。
するとにわかに聞こえてきた声。それは空間を通さず、ノクトの頭の中に直接響いてくる。

<あなたは――誰?>

ノクトは、あたかもそこに声の主がいるかのごとく、夜空を睨みつけた。
その声は、「光」が見えるようになってから何度もノクトに語りかける正体不明の現象だった。
その声を聞くたびに彼の心はざわめき揺れた。
ステラとの出会いに水をさされたような気がした。

「――こっちの台詞だ」

そう吐き捨てると、ノクトはその場を去った。
絵の中で、エトロが静かに彼を見つめていた。













end.
















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