SOMNUS

旅立ち


世界はだんだんと色を失っていくようだった。

いつしか、青い空は白く濁り、太陽は輝くことを忘れてしまったかのように熱をなくした。
緑の草原は朽ちた枯れ葉の色に変わっていく。
色褪せた花が、匂いのない風に儚く揺れる。

この、死にゆく世界に生まれ、ノエルはしかし、自分が不幸だとは思わなかった。
なぜなら、自分には守るべきひとがいる。
目標とすべき師もいる。
郷の仲間が一人減り二人減り、最後には三人だけになってしまっても、
ユールとカイアスさえいれば、自分は生きていけると思った。

日々何かが終わりを迎えていく世界にあって、彼はそれでも希望を失ってはいなかった。


「カイアス、心配してるかな?」
前を歩くユールが振り返った。
「大丈夫だろ。あいつはいっつも仏頂面なんだから、たまには不安そうな顔させてみよう」
ノエルが言うと「カイアスの不安そうな顔なんて想像できないよ」とユールがくすくすと笑った。
その日、ノエルとユールは食べられる果実を探して、郷から離れた場所まで出かけていた。
だんだんと食物が減りつつあった。
それでも探せば三人分の食料くらいはなんとかなった。
絶滅していない野獣もまだたくさんいる。カイアスは野獣の料理に関しては長けている。
食に関してはまだそこまで悲観していなかった。

「あ、ノエル見て。花が咲いてるよ」
ユールが駆けだした。
「ユール、気をつけ……」
少女の背中に声をかけたノエルは息をのんだ。
ユールの細く白い足に糸のような赤い筋ができていた。
「ユール、怪我したのか!?」
「え?」
ユールはきょとんとしている。
ノエルは抱えていた果実の籠を放り出し、ユールに駆けよった。
「足!血が出てる!」
ノエルが指さすと、ユールは初めて気づいたとでもいうように「あれ、どうしたんだろ」と首を傾げた。
「どこか、痛まないか」
「ううん、どこも。怪我もしてないよ」
「だったらこの血は?」
「さあ? さっき食べた果実の汁じゃないかな」
ユールがどこも怪我していない様子なので、ノエルはとりあえずほっとした。
しかし、何かわだかまりが残る。
ユールは懐から取り出した布で血のようなものをぬぐった。
「なんでもないよ。ノエルは心配し過ぎなんだから」
ユールは道に咲いていた花を、根から丁寧に抜き取った。
黄色い小さな花は、ユールの手の中で小さく揺れた。


バラックのような粗末な家に戻ると、カイアスが野獣を料理しているところだった。
そのかぐわしい匂いに、ノエルの腹の虫が鳴る。
「遅かったな」
カイアスは案の定、心配そうな顔はしなかった。
ノエルは先ほどの件を話してみようと思った。
ノエルより年上の彼なら何か知っているかもしれないと思ったのだ。
「カイアス、ちょっといいか」
「なんだ、食事が終ってからにしろ」
それもそうだとノエルは思った。まずは腹の虫を黙らせよう。

野獣の丸焼を切り分けて皿に盛り付けていると、ユールがやってきた。
「さっき摘んできた花、食卓に飾ろうと思って」
小さな花は植木鉢に見立てた小さな箱に植えられていた。
「名案」
ノエルが言うとユールは小さく微笑んだ。なんだか様子がおかしい。
「ユール?」
やはり、どこか怪我をしていたのだろうか。
「わたし、ご飯要らない」
「え、ユール?」
ノエルが引き留める間もなく、ユールは自分の部屋に閉じこもってしまった。
「ユール、どうしたんだ、ユール」
ノエルが部屋の前で呼び掛けても、何も言わない。
ドアを開けようとすると、「来ないで」と叫ばれる。
「どうかしたのか」
カイアスがノエルの肩に手を置く。
「ユールが……」
カイアスが睨んでくる。物騒なほどの凄みがある。歴戦を制してきた男の目だ。
「なんだよ。俺は何もしてないよ」
「いいから、こっちへ来い」
馬鹿力に掴まれて、ノエルは強制的に家の外に連れ出された。
カイアスはノエルに向き直った。腕を組むと威圧的な眼差しを向けてくる。
さすがのノエルもこれにはむっとした。
「だから、俺はなにもしてない」
「きみが何かしたとは言っていない。もしそうなら、きみは今頃鳥獣の餌になっているだろう」
カイアスは表情を一切かえない。冗談なのか本気なのか分からない恐さがある。
「話と言うのを聞こうか」
「え、ああ……」
ノエルはさっき見たことを話した。「ユールは果実の汁だって言ってたけど」
カイアスは難しい顔をしていたがおもむろに口を開いた。
「きみも知っておいたほうがいいだろう。ユールぐらいの歳になると、体にある変化が現われる」
「変化?」
「そうだ。つまり、少女から大人の女性へ、子どもを産める体へ変化するのだ」
ノエルは衝撃を受けた。ユールが子どもを産める? しかし、考えれば当然のことだった。ユールも女なのだ。
「ユールの母親は死んだ。郷にも女はいない。彼女は自らの体の変化に戸惑っているはずだが、相談できる相手はいない。男である私やきみが首を突っ込んでいい問題ではない。いいか、そっと見守ってやるのだ。いいな?」
「わかってるよ」
ノエルはそう答えるしかなかった。


その日を境に、ユールはあまり笑わなくなった。
ノエルと連れだって食物採集に出かけるのが日課だったが、ほとんど部屋に引きこもる毎日だ。
ユールの護衛をカイアスに託し、ノエルは一人ヘビーモス狩りに出かけた。
ノエルは、ユールと二人きりで家に残るのを避けていた。
カイアスに彼女の体の変化を教えられてから、どうしても彼女を雄の目で見てしまう。
そんな自分が汚らわしいケダモノのようで耐えられなかった。
以前のように、純粋な気持ちで守護者としてありたかった。
カイアスには、「きみぐらいの歳の男なら仕方ないことだ」と言われた。

「馬鹿にしてる」
ノエルはヘビーモス狩りに全神経を注ぎこんだ。
体を動かしていれば、余計なことは考えずに済む。


ユールが摘んできた黄色い花、その花がしおれた夜、カイアスが消えた。
「エトロを殺す」というわけのわからない目的のために。
カイアスは狂ってしまったと、ノエルは思った。
この絶望に満ちた世界が彼を狂わせたのだ。

ノエルは聖約者になることもできず、ユールと二人取り残された。
ユールはカイアスが去っていくことを予見していたはずだが、何も言わなかった。
自分たちが引き留めたところで、彼の意志を変えられないことを知っていたのだ。

ユールは時詠みの巫女だ。
未来を視る力をエトロより授けられた。
その力は、しかし、彼女自身の命を削る。
もう、視るべき未来などないかもしれないのに、それでも彼女は時を視て命を削らねばならないのだろうか。
無意味に、寿命を縮めなければならないのだろうか。
時を視ずにすむ方法はないのだろうか。
時を視るたびユールの体が日に日に頼りなく細くなっていくことに、ノエルは焦りを感じた。

視えた未来をユールは語らなくなった。
ノエルもあえて尋ねない。
時が視えるということは、まだこの世界に未来があるということだ。
希望をもっていいのだ。そう考えることにした。

「ノエル」
真夜中、ユールがノエルの部屋の戸を叩いた。
「どうした?」
ノエルが戸をあけると、ユールが胸に飛び込んできた。
ぎゅっとノエルの背中を掴む。
「こわい夢でも見たか?」
からかうような調子で言ったが、心臓が跳ねて声が震えた。
ユールの体が冷たい。
「もう、時間がない。ノエル、わたしを抱いて」
「ユール、なにを言い出すんだ」
「お願い。もう時間がない。わたしは死ぬかもしれない。死ぬ前に子どもを産めば、あなたは世界に一人じゃなくなる」
世界に一人。その言葉がノエルの背筋を氷の柱で貫いた。世界でたった一人きり。
そんな絶望的な現実が待っているのか。考えないようにしていたが、時詠みの巫女から改めて告げられると、その重さがずっしりと心をふさいだ。
「ユール。子どもはすぐには生まれないぞ」
わざと茶化すように言った。しかし声の震えはどうしようもない。
「わかってるわ。でも、どんな可能性も大事にしなくちゃ」
この子は本気なんだ。ノエルはそう思った。本気で俺を心配してくれている。
でも――。
「そうだな。それじゃ頼むよ」
ノエルはユールの小さな体を抱え上げ寝台に運んだ。
そっと寝かせる。
ユールは目を固く閉じて気の毒なくらい震えていた。
やさしく唇を重ねる。
初めて触れる彼女の唇はとても柔らかかったが、冷たく乾ききっていた。
幼馴染で、ずっと守るべき存在だった。
だけど、守られていたのは俺のほうだったんだとノエルは思った。
ユールがいてくれたおかげで、自分は生きる意味を見失わずに済んだ。
ユールを守るという存在意義、それがあるからこそ真っ直ぐに生きてこられたんだ。

ノエルはユールの瞳からこぼれた涙を指でぬぐった。
「ごめんな、こわい思いをさせて」
「え?」
「ここで寝てろ。俺はちょっと剣の稽古してくる」
「ノエル?」
ノエルは剣を持って外に出た。凛と冷たい空気が頬を射る。

ノエルは思い知らされていた。
ユールが決して自分を見ようとしなことに、流した涙に、彼女の隠しきれない拒絶の意思がはっきりと現われていた。
ユールが愛していたのはカイアスだ。
わかっていたはずだ。
カイアスへの想いを抱いたまま、俺の子を生みたいと言ったユール。
彼女の決意を受け入れきれなかったのは、この俺だ。

ノエルは空を仰いだ。こらえ切れなくなった涙が、幾筋も頬を伝った。
哀しかった。
ユールはノエルの生きる支えだ。愛などという言葉では足りない。
魂の一部なのだ。
ユールの心を全て奪って去っていたあの男に、今は憎しみしか感じない。
「ユールの心を返せよ」 そう叫びたかった。

かつてコクーンがあった空は、漆黒の闇に覆われていた。
しかし、そこに点々と輝く星々がある。
この星は遠くない未来終わりを迎える。
でもまた新しく生まれる星もある。
時詠みの巫女が転生を繰り返すのなら、俺の魂ももしかすると他の時代どこかの世界に転生するかもしれないじゃないか。
そう考えると、深い哀しみは少し癒される気がした。


ユールは数日後に死んだ。

ノエルは未来を変えるために旅に出た。
宛てなどない。
ただ、カイアスが最後に言っていた、女神のいるヴァルハラという地に行けば、手がかりがつかめるかもしれないと思った。
無謀であることは重々承知している。
旅の途中で朽ち果てても、それならそれでいいと思った。
自分には、もはや、なくすものなんて何もないのだから。


ノエルは深呼吸をひとつすると、目の前に広がる白い砂漠を睨んだ。




end.




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